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京都洛西に佇む苔のお寺「西芳寺」の紹介です。世界遺産に登録されています。

西芳寺のご由緒については以下を参照ください。

西芳寺の歴史
遡ること1,300年前の奈良時代、聖武天皇の詔により、行基菩薩が畿内四十九院の法相宗の寺として開山しました。開山前の飛鳥時代、西芳寺があった土地には聖徳太子の別荘があったといわれております。

平安時代初期には弘法大師が一時住し、鎌倉時代初期には法然上人が浄土宗に改宗。兵乱による荒廃の後、松尾大社の宮司藤原親秀の招請で、暦応2年(1339年)に当時の高僧であり作庭の名手でもあった夢窓國師が禅寺として再興しました。

足利義満や義政をはじめ、西芳寺を訪れて坐禅に励んだ者も多く、後に開山される金閣寺や銀閣寺など、室町時代を代表する庭園の原型になったといわれております。35,000平方メートルに達する庭園は、国の特別名勝及び史跡に指定されており、平成6年(1994年)にはUNESCOの世界文化遺産「古都京都の文化財」の1つにも登録されました。現在は境内一面を覆う苔の美しさから、通称「苔寺」としても親しまれております。

日本の多くの禅寺は、禅宗の伝来・隆盛と機を同じくして、鎌倉時代に開山されましたが、西芳寺の開山は奈良時代の天平年間(729~749年)と伝えられており、1,200年を超える長い歴史を有しています。この歴史の長さは、宗派を変えながらも、その時代時代に根付き、人々を魅了してきた証でもあります。

(以上、西芳寺HPより引用)

西芳寺は予約制で、往復はがきでの申し込みが必要です。参拝料も三千円と高いですが、上の本堂での写経体験ができます。

予約制にしたのは1977年からで、観光客の増加で境内が荒れたことへの対応として導入されています。一回の参拝者数が限られますので、ゆっくりと落ち着いて参拝することが可能です。

庭園に向かう小径から苔むしています。

西芳寺庭園は、室町初期に、禅僧・夢窓国師によって造られました。
上下二段式構成となっており、銀閣寺・金閣寺は明らかに西芳寺のこの形式を模しており、修学院離宮、桂離宮にも影響を与えています。

まずは池泉回遊式庭園(下段)から始まります。
上は金剛池です。小石が美しく配列されています。

金剛池から少し歩くと左側に大きな池が開けます。黄金池で、回遊庭園の中心となります。
茶室(↑)も見えてきます。湘南亭と名付けられ、千利休の次男、千少庵により建立されました。幕末、岩倉具視はここに隠れ幕府の追求から逃れたそうです。

黄金池は規模の大きな造りとなっており、ところどころに橋が掛けられています。
比較的大きな苔むした池が配列されています。池には周辺の木々の緑が反射し、緑色の別世界を構成しています。撮影前日は雨でしたので、苔も木々も生き生きとしています。

西芳寺庭園は二段式構成ですが、上段は枯山水庭園となっています。
「向上関」(↓)と呼ばれる門をくぐり階段を上がっていきます。

西芳寺はもとは下段部分だけで、上段にあった「穢土寺」を夢窓国師が合体させて庭園したそうです。池泉部分の下段は極楽浄土、枯山水の上段は地獄を表現しているのでしょうか。
この上下二段構成は銀閣寺に顕著で、造成者の足利義政は西芳寺を絶賛しており、豪雨のなか西芳寺を参拝した(どれだけ好きなの!)記録が残っているそうです。

緑の楽園(?)の池とは対照的な枯山水です。

下は大仏次郎による碑文です。小説「帰郷」の中の一節で、川端康成の書によって刻まれています。

苔寺にて
お互いの祖先の日本人がその時々に築き上げて遺したものを今の若い人たちがどんな風に
見ているのか尋ねたいことである亡びたものをただ美的な興味で眺めているのかそれとも
こう乱雑になった世の中にも自分たちの生活や血につながりのあるものとしてなつかしみ
受け取ろうとする心が残っているのか確かめてみたい  帰郷 過去の章より
             大仏次郎作   川端康成書

上は今は通行不可となった総門です。早くも紅葉していました。もう少しで秋が来ます。

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