
【マンキューの十大原理】
1.人々はトレードオフに直面している
2.あるものの費用は、それを得るために放棄したものの価値である
3.合理的な人々は限界原理に基づいて考える
4.人々は様々なインセンティブに反応する
5.交易(取引)は全ての人をより豊かにする
6.通常、市場は経済活動を組織する良策である
7.政府が市場のもたらす成果を改善できることもある
8.一国の生活水準は、財・サービスの生産能力に依存している
9.政府が紙幣を印刷しすぎると、物価が上昇する
10.社会は、インフレと失業の短期的トレードオフに直面している
人々はどのように影響し合うのか ②
十大原理の5~7「人々はどのように影響し合うのか」、今回は6について説明します。
通常、市場は経済活動を組織する良策である
ここは市場経済の(計画経済に対する)優位性についての原理です。若い人はあまり知らないかもしれませんが、今のロシアは昔「ソ連」(ソビエト社会主義共和国連邦)という名前で、計画経済に基づく共産主義国家でした。1960年代にはアメリカと並ぶ超大国でしたが、計画経済が行き詰まり内部崩壊し、今のロシアの体制に行き着いたのでした。
「通常、市場は」という慎重な言い方をしているのは、市場経済もうまく機能しない領域があるからです(「市場の失敗」と言われます)。しかし、大筋で市場経済が良策であることは、歴史が証明したと言って良いでしょう。
中国はどうだって? あそこも昔は計画経済でしたが、徐々に市場経済を取り入れてきました。今は、専制君主(共産党)+市場経済の組み合わせで成り立っている国家、といって良いでしょう。
日本人(特に高齢者)は計画経済に対する郷愁が根強く残っているように感じます。値段が高下することに反射的な嫌悪感を示すお爺ちゃんは良く目にします。市場が良策であることを、是非理解してもらいたいものです。
市場がもつ価格調整機能
市場が良策である理由は、それが価格調整機能を持つからです。
欲しい人(需要者)と作る人(生産者)が、自由に決まる値段で取引することで、社会全体に必要な財・サービスが無駄なく流通するのです。
逆を考えるとわかりやすいでしょう。政府が提供する財・サービスをイメージしてください。政府ですので、生産量を人々の必要に合わせて調整したりはしません。また、儲かろうが損しようが、他人ごとです(役人の懐は痛まない)。
そこで、人々が必要な財・サービスについて、供給以上に需要が発生したとしましょう。民間であれば、値段が上がるに連れ、その供給を増やしていくでしょう。作っても作っても高い値段で売れるのですから(生産量が増えるにつれ値段は落ち着いてしまいますが)。
しかし政府の場合は供給を増やしたりはしません。値段も、そもそも固定されています。では人々はどうするのか。
供給不足のその財・サービスを求めて「並ぶ」のです。自分の番がくるまで辛抱づよく。。。
実際、計画経済時のソ連や東欧を訪れた西側(懐かしい言葉!)の旅行記を読むと、いたるところ(供給所)で「待ち行列」が発生していたことが書かれています。ある意味、待ち行列が(潜在的)値段を示していたのでしょうね。「長い」ほど「高値」。
一方、行列のない「供給所」には、やまほど品物が積まれていたそうです。供給所の管理人はただ座っているだけ(売れても売れなくても役人には関係ない)。
その待ち行列に割って入れる人々がいました。誰だって?供給所の役人の関係者です。役人本人お及び家族に至っては、並ぶ前からその商品を受け取っていたでしょう。
また、ソ連では山と積まれたテレビが爆発する事件も起きました。役人には売れても売れなくても関係ないし、メインテナンスする気持ちもなかったのでしょう。
直接に価格調整機能と関係のない事例も書きましたが、市場が良策であることを示すには、その反対の計画経済のお粗末さを示すことがわかりやすい。そしてその実例は、枚挙にいとまがありません。
計画経済は「原理的に」機能しない
「計画経済」が上手く機能しなかったソ連の実例を示しましたが、「計画好き」の人からは以下の反論が来そうです;
1.現在のスーパー・コンピュータ、AIなどを活用すれば、人々の需要予測など計画の精度は格段に改善するのでは
2.生産を担う国営企業のモラルを改善すればよい(改善できる)
この2つの反論について、それは「原理的に不可能」であることを以下示します。
1.いかにコンピューターの精度が上がったとしても、情報が正しくインプットされなくては何の意味もないのです。例えば人々が、何をどの程度欲しているかの情報が「正確に」インプットされれば、何十億人分であろうとコンピューターは「正確に」集計するでしょう。しかし問題はそこにありません。
事前にインプットする項目を決めること自体、もっといえば事前に情報を収集すること自体が、「インプットされない、情報収集されない」項目を作ってしまうのです。消費の現場、生産の現場は刻一刻と変化をします。そういう動的な現場の「ある一時点の」情報を「切り取る」ということは、その後の変化を「捨て去る」ということです。「現場の動的な動き」を「事前に収集しよう」とする行為そのものが矛盾なのです。
この矛盾を回避するには、「現場は動的でない」と仮定するしかありません。これは「計画に従え」ということと同義です。
2.計画経済において生産を担うのは国営企業です。国営企業は、国営ですので破綻しません。また国営企業の経営(というより運営)者は破産しません。だって運営会社が破綻しないのだから。
よって、運営者達は「リスクを張って経営判断をする」人々ではありません。作り過ぎようが、生産物の品質が低かろうが「他人事」なのです。
これはモラルの問題ではありません。自らにリスクが降りかからない問題について、人々の意思決定は甘くなるのです。
聖人君子のような人も稀にいるでしょう。リスクの所在に拘わらず全て自分事として物事を処理する。。。しかし大勢は「人ごと判断」となるのです。良い悪いの問題でなく、確率的に間違いなくそうなってしまうのです。
「人ごと」にならないようにすれば良いって?そう、それが唯一の解決です。会社を運営者の持ち物にすれば良いのです。あれ、それって市場経済って呼ぶのでは?